各務原市で催された「平和シンポジウム 各務原空襲を忘れない」という のに出かけてみた。
米公文書館の所蔵フィルムの中から、各務原空襲を撮影した映像が見つかったので、その上映と合わせての講演ということだった。
しかし、映像は「B-29による爆撃:47秒」「P-51の機銃掃射(ガンカメラ映像):7秒」と非常に短い。朝9:30から昼の12:30までのプログラムで、ほとんどは「講演」(?)である。
「平和シンポジウム」というものの、およそアカデミックなイベントではなく、あくまで「戦争の記憶を風化させない」ための市民向けイベントである。
空襲映像を見せて「平和を考える」というのも、陳腐で定型的なイベント主旨だが、この種の企画では仕方がないだろう。そのことに意味がないとは思わないし、こういう機会を作ったことは評価されてよいと思う。
さて、配布されたコピー資料を見ると、6月22日は各務原市「平和の日」だそうだ。
各務原市は、薄れていく戦争の悲惨さを顧み、平和の尊さを後世に伝えるため、各務原空襲のあった6月22日を「平和の日」と定め、平和の誓いを新たにするものとする。
配布資料より
戦争はダメに決まっているではないか
配布されたコピー資料には「平和を考える前に ある若い二人の会話」として、架空の会話が書かれており、最後に「難しいことは知らないけど、とにかく戦争はダメに決まってるよ!」
と言わせている。
これは、「戦争はダメに決まっている」と決めつける前に、いろいろ知るべきだ、ということを言いたいのだろう。
しかし、詳しく知ろうが知るまいが、 「戦争はダメに決まっている」のである。
「難しいことは知らないけど、とにかく戦争はダメに決まってるよ!」 に対して、「平和を考える前に」と題して、なにを訴えたいのか。
「戦争はダメに決まっている」 という当たり前の意見に対して
「太平洋戦争はどうして起きたか知ってる?」
とか
「各務原空襲で、どんな爆弾が使われたか知ってる?」
とか、なにを訴えたいのか。
愛国美談への誘導
よくわからないことが書かれた後に、訴えたいことは書かれていた。
学徒動員で飛行機の部品製造をさせられる女学生の写真の横に、こう書かれているのだ。
かなりトンデモなので覚悟して読んでほしい。
彼女たちは間違ったことをしたのか?
人殺しの道具を作った?
戦争の協力者?「よく頑張ったね」と言ってあげたい
学びたい・遊びたい・おいしいものを食べたい
という気持ちを一切我慢して守るべきものを守るために働いた彼女たちに
何の罪があろうか
めちゃくちゃである。
学徒動員に駆り出され、 学業を放棄させられた若者に向かって、「よく頑張ったね」だそうである。
「守るべきものを守るために働いた」んだそうだ。
これは「ひめゆり部隊」や「特攻兵」賛美と同じ、陳腐な「愛国者」論法である。
戦争の犠牲者を「愛国美談」の主人公にすることで、国家による「戦争」が庶民に押し付けられる不条理な暴力を、簡単に免罪してしまう醜悪な欺瞞だ。
彼女たちが、なぜ「一切我慢」させられたのか。彼女たちが信じ込まされた「守るべきもの」とはなんだったのか。
彼女たちは、間違いなく「人殺しの道具」を作っていたし、「戦争の協力者」であったし、それは人類普遍の倫理に照らせば「間違ったこと」である。
しかし、責任を問われるのは、それを彼女らに強いた者であり、彼女らに向かって「よく頑張ったね」などという戯言を投げつける者である。
>学徒動員に駆り出され、 学業を放棄させられた若者に向かって、「よく頑張ったね」だそうである。
政治思想が右であろうと左であろうとこの言葉掛けは仕方がないのでは?
実際、戦争という大人の都合に巻き込まれた側なのですから
立て篭り事件の人質がいたとして、その人質が解放された直後に「よく頑張ったね」と声をかけたことに対して物議を醸し出しているのと何ら変わらないと思います。
そこの点以外は書かれていることに賛同します。
このブログはミリタリーを扱っている割に書かれていることは中立的で個人的には好きだったのですが、今回の投稿はシンポジウムの揚げ足を取るのが目的だと読み手が捉えかねない部分があり、正直なところ残念に思います。
コメントありがとうございます。
僕の父と叔父も学徒動員に取られていますので、動員学徒の立場はよく理解しています。
子供を戦争に協力させることの是非は、立場の左右を超えて「悪」であるとしか言いようがありません。
そのうえで言葉をかけるとすれば、戦争に協力させられたことを「よく頑張ったね」と労うのではなく「学業の機会を奪い、戦争に巻き込み、申し訳ありません。二度と繰り返しません。」しかありえないと思います。