ご多分に漏れず、僕も映画「風立ちぬ」を観てきた。
ディテールがとてもよく描写された、美しいアニメーション映画だった。
興行成績もよいらしく、概ね好評を得ているようだ。
一方で、「零戦をつくった責任について無邪気すぎる」という評もあった。
(紙屋研究所:2013-08-18 映画「風立ちぬ」を批判する)
なぜゼロ戦開発、少なくとも九六式開発が描けないのかという問題に移ろう。結論からいえば、「零戦をつくった責任について無邪気すぎる」ためであり、ぼくのこの映画に対する最大の批判点はまさにその点にある。
まあ、兵器を作る者の責任について、何らかのエクスキューズを求める気持ちはわかるが、この映画にそれを求めるのは筋違いだろう。
むしろ、同じ批評にある「飛行機にかける夢についてはロジックがまったく詰め切れ」ていない、という点のほうが、この映画の主題において重要だ、というのが僕の意見だ。
というわけで、この点については自分でも思うところがあり、ここで少し触れてみたい。
まず、この映画では、戦闘機を開発するモチベーションとして、作中の堀越に「美しい飛行機をつくりたい」と言わせている。
(参考リンク:J-CAST)
・・・・とんだ寝言である。
現実の飛行機設計者は、そんなふうに思って飛行機を開発してなんかいない。
優れた飛行機が美しいのは、設計者が「美しく設計する」からではなくて、とことんまで機能や性能を追求した結果、必然的に機能美が宿るからに他ならない。
「美しい飛行機を作ろう」として、優れた飛行機など生まれっこないのだ。
とりわけ、零戦のように、相矛盾する要求に対して高度な妥協点(コンプロマイズ)を求める戦闘機においては、設計者にとって要求実現の追求だけが全てであって、美しさなどというものは、その結果からしか生まれようがない。
宮崎駿は兵器マニアを自認していて、多くの作品中に自身の創作による飛行機を多く登場させている。
けれども、工業製品たる航空機の設計に宿る本質は、本作においてもまったく描くことができていない。
先のリンクで、本作では「飛行機開発が描かれていない」と評されているが、実にそのとおりである。
しかし、その理由は「零戦をつくった責任について無邪気すぎる」からではなくて、アニメ作品を創作するクリエーターである宮崎駿には、工業製品である「飛行機にかける設計者の想い」や「設計・造形のロジック」が根本的に理解できていないからなのだ。
その点において、宮崎駿は、飛行機マニアとして落第である。
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