映画『主戦場』

『主戦場』チラシ

立ち見が出る盛況

このゴールデンウィークに、ぜひ見たいと思っていた映画『主戦場』を見てきた。
全国のミニシアターで上映されているが、多くの館で連日満員となり、補助椅子や立ち見での鑑賞になる場合も多いようだ。僕は名古屋シネマテークで鑑賞したけれども、この客席40のミニシアターは、予想どおり立ち見の客が出る超満員だった。
僕は立ち見にこそならなかったが、客席前方に並べられた座椅子に座って鑑賞する仕儀となった。映画館で立ち見が出るなどというのは、幼少期に親父に連れられて見た夏休みの怪獣映画以来の経験であった。

本作は「従軍慰安婦問題」というセンシティブなテーマを取り上げているが、こうしたジャーナリスティックな映画が日本でこれほど話題になるのは、あまり例がないように思う。
いわゆる「右派論壇」による歴史修正主義(リビジョニズム)言説と、そうした人々に下支えされる現政権のありさまに、多くの人が憂慮を寄せていることが、この観客動員数に繋がっていると、僕は考えている。

リビジョニストの主張

映画の前半を中心に展開されるリビジョニストの主張は、いわゆる「ヘイト本」やネット言説で垂れ流されてきた独善的な詭弁や虚偽によるもので、特に目新しいものではない。
曰く、慰安婦は高給を食んでいた、慰安婦はピクニックにも行っていて奴隷ではない、被害者を騙したものの多くは朝鮮人だったから日本軍に責任はない、などである。
もっとも、自民党議員 杉田水脈による「日本の工業製品に技術的に勝てない中国や韓国が、日本製品のボイコットを誘導するために煽動している」という珍説は、ネット上でさえあまりお目にかかれない異常な現実認識を披歴するもので、観客の失笑を買ってはいた。
これらの反論に対して、映画の中では史実派からの反証が重ねられていく。

本作品の公開後、インタビュイーとして登場するリビジョニストたちからは「騙されてインタビューを受けてしまった」という反発が起きている。
(ケント・ギルバートだけは、当初「自分の言いたいことがちゃんと映像になっている」と評していたらしいが、その後態度を改め、今は他のリビジョニストと一緒に本作を批難している)

「主戦場」~スクリーンの外の恐ろしい現実 – 酔生夢死浪人日記 – Gooブログ より

リビジョニストたちによると、「デザキ監督が大学院の卒業制作だと言っていたのでインタビューに応じた」とのことだが、この作品が卒業制作であるかどうかは、主張の内容や正当性にまったく関係がないはずである。
もし、デザキ監督がインタビュイーの重要な発言を削除していたというなら、それを示せばよいのであって、「騙されて出演した」などというのは見苦しい泣き言にすぎない。

人権思想と全体主義

この映画でも捉えられているが、リビジョニストと史実派の決定的な違いは、資料解釈の問題というよりも、問題のフレーミング(捉え方)であろう。
リビジョニストたちは、慰安婦問題を「日本を非難する宣伝活動」だと捉えているが、史実派の側にそういう意図があるわけもなく、問題はあくまでも「戦時の重大な人権蹂躙」である。日本という国家との結びつきで言えば、「大日本帝国の犯した重大な犯罪行為」に過ぎず、決して「日本」あるいは「日本人」の本質として問題視しているわけではないのである。ここにおいて両者は決定的に隔たっている。

従って、たとえどのような事実を突き付けられようと、リビジョニストはその犯罪性や非人道性を認めることはない。
いみじくも藤岡信勝が述べているように、彼らの根底には「国家は絶対に謝罪してはならない」という考えがあり、植民地支配を含む、日本帝国主義の非人道的行為も、彼らにとっては無条件に擁護すべき対象だからである。

リビジョニストの多くは、この問題に触れると「日本だけが非難されるのはおかしい」とか「ベトナム戦争時の韓国軍による性暴力はどうなのか」など、別の話を持ち出して問題を矮小化する。史実派は、リビジョニストが持ち出すまでもなく、日本軍以外による性暴力の問題に対しても、個々のケースに応じて批判的であり、それらを容認することなど決してないにもかかわらず、である。

リビジョニストたちにとって、この問題が日本vs韓国(あるいは「反日」勢力)という対立構図である以上、そこに対話の余地はない。
これは、全体主義の呪縛と、人の尊厳を守ろうとする者との、対立である。

ミキ・デザキが問いかけるもの

この映画は、元慰安婦が怒りを爆発させる場面から始まっている。
その怒りの矛先が向いているのは、この場面においては、日本国でも、日本軍でもなく、韓国の外交部である。
言うまでもなく、元慰安婦の意思とは無関係に結ばれた日韓合意に対する、血の出るような被害者の叫びである。

ミキ・デザキ監督が、このシーンを冒頭に選び、そして映画の最後に問いかけているとおり、この「従軍慰安婦問題」は「日韓の対立問題」ではない。その下に別のレイヤーが横たわっている。
リビジョニストたちによる歴史の否定は、そのレイヤーの上において、政治的に利用されているに過ぎないとも言える。
ミキ・デザキがこのような理解に行きついたのは、沖縄で教師を務めた彼の経験と無関係ではないだろう。

ややもすると、本作は「リビジョニストの妄言を一蹴する痛快作」と見られる危惧があるが、デザキ監督の問題意識はそこに留まらない。
「従軍慰安婦問題」に関する知識のあるなしを問わず、ぜひ多くの人がこの映画を見て、デザキ監督の発する問いについて考えてほしいと思う。

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