ロバート・C・ミケシュさんのこと

ロバート・C・ミケシュさんのことは、知っている飛行機マニアも多いだろう。
彼は僕の父親と同じ1928年の生まれだが、B-26爆撃機のパイロットとして朝鮮戦争に、後にはB-57爆撃機のパイロットとしてベトナム戦争に参加、そしてO-1バードドッグを駆ってFAC(前線航空統制)までやったという、バリバリのベテラン操縦士である。
なにしろ空軍の殊勲飛行十字章(Distinguished Flying Cross)を二度授与されているらしい。

この朝鮮戦争とベトナム戦争への参加を通じて、ミケシュさんは日本に駐留していた。そのせいかどうかよく知らないが、大戦前の日本機について造詣が深く、ミケシュさんは特に日本機に関する著書を多く残している。

1970年代に、ミケシュさんはアメリカのスミソニアン航空宇宙博物館でシニア・キュレーター(主任学芸員)になり、日本海軍の「月光」復元などを含め、こちらでも非常に大きな貢献をしておられる。こうした経歴を通じて、日本の飛行機マニアもミケシュさんの名をよく知るようになり、いわばカリスマ的な存在である。

1998年だと思うのだけど、ミケシュさんが東京文化財研究所の招きで来日し、僕も親しく接する機会を得たので、そのときのことを書き残しておくことにした。

この頃、それまで江戸期までのものに限られていた文化財指定を、より後代の近代文化遺産にまで拡大する動きがあり、保存修復技術を専門とする東京文化財研究所が、航空機を対象として調査を行った。航空機はもちろん近代以降に登場した工業製品だが、とりわけ使われている素材が多岐にわたっていることから、最初の対象分野に選ばれたのだという。そんなわけで、僕も東京文化財研究所の”客員研究員”ということになっていた。

ちなみに、そうした活動の成果の一部は、東京文化財研究所が『未来につなぐ人類の技 Conservation of Industrial Heritage』というデジタルブックでも公開しているので、ぜひ見てみてほしい。第一回目の報告書が「航空機の保存と修復」である。

ミケシュさんを日本に招聘した際、オランダ空軍博物館や、ドイツ技術博物館の学芸員らも来日したのだが、このとき日本では「かかみがはら航空宇宙博物館」がホスト的な役回りを担うことになった。これは今でもそうなのだが、航空機を「文化遺産」として保存しようと考える施設は、日本では「かかみがはら」以外になかったという事情がある。
その際、各国から招いた専門家たちを相手に、困ったことに僕が通訳を務めることになってしまった。
東京文化財研究所には、帰国子女や海外勤務の経験者がたくさんいるし、本来なら英会話の苦手な僕なんかが出る幕ではないのである。しかし、そこはさすがに専門家集団で、非常に真面目である。航空機の話をするのであれば、専門用語が正確に訳せなければいけない、というわけなのだろうが、英語の下手な僕がたどたどしく通訳をさせられる羽目になったのであった。

ミケシュさんの印象

さて、ミケシュさんの話である。
おそらく誰もが言うことだと思うが、ミケシュさんは紳士であった。
しかも常に茶目っ気を備えていて、相手への気遣いを忘れない。敬意を覚えずにはいられない人物というのは、ああいう人を言うのだ。

来日した皆さんに、まず「かかみがはら航空宇宙博物館」を案内した際、「この博物館では日本の国産機をコレクションしている」と説明すると、ミケシュさんは「あのアルーエトは?」と茶目っ気たっぷりに聞き返してきた。

かかみがはら航空宇宙博物館に展示されていたアルーエトIII

当時「かかみがはら航空宇宙博物館」の屋外には、名古屋市消防局から寄贈を受けた「シュド・アルーエトIII」が置いてあったのだが、これはもちろん輸入機である。開館を準備していた頃、他の機体が収集できるかどうかわからない中、たまたま入手できる機体として受け入れたものだった。
ミケシュさんは、日本でアルーエトなど作られたことがないことはよく知っており、言われなくてもコレクションの内容をよく見ていた。僕はミケシュさんの知識と茶目っ気に、とても親しみを覚えたのであった。
(ちなみに、その後博物館がリニューアルした際、このアルーエトは「ヘリコプター歴史保存協会」に引き取られていった)

ヘリコプター歴史保存協会へ搬出されるアルーエトIII

僕にとって、ミケシュさんは憧れの人だった。
こんなことは生まれて初めてだったが、ミケシュさんと阿部章三さんの共著である「Japanese Aircraft 1910 – 1941」を差し出して、ミケシュさんのサインをねだった。
そのとき、照れ臭かったこともあって、仰々しく「May I beg your autograph?」と言ってみると、ミケシュさんは「Get down on your knees.」(ひざまずきたまえ~)と笑いながらサインをくださったのであった。
実は、共著者の阿部章三さんとも僕は親しくしていただいていたのだが、ついに阿部さんからこの本にサインをいただく機会はなかった。阿部さんは、各務原に里帰りする飛燕を楽しみにしておられたのだが、とうとう見ていただくことができないまま、この世を去られてしまった。この場を借りてご冥福をお祈りする次第である。

第一術科学校にて

その後、僕たち一行は航空自衛隊の浜松基地を訪問した。
航空自衛隊広報館(エアーパーク)の開館を準備していたことが理由だったんだろうと思うが、そのへんはよく覚えていない。
当日は雨が降っていて、屋外のエプロンはバスの中から眺めただけだったが、早期警戒管制機E-767が駐機していた。ボーイング767を改造したAWACSで、世界でも航空自衛隊しか保有していない。
ミケシュさんは僕に「あれの型式名はなんというのか」と聞くので「E-767だ」と答えると、「それは本当に正式な型式名なのか?」と確かめられてしまった。僕も、あんな型式名はどうかと思う。

浜松基地には、整備士を教育する第一術科学校があって、航空自衛隊の装備する現役航空機の多くを教材として保有している。そうした機体を前に、若い幹部がいろいろ説明してくれるのだが、これを僕が通訳するのである。今考えると、我ながらよくそんなことができたものだと思う。今やれと言われてもできっこないだろう。
説明の中心は、F-4EJ戦闘機を日本で独自に改修したF-4EJ改だった。ほかの飛行機は外国のものと違わないが、この機種だけは、外見は普通のF-4だが、中身が違うからである。

説明役の幹部は、話が進むうちに興に乗ったのか「日本のF-4パイロットは、イスラエル軍を除けば、世界一優秀なのだ」と言い出したのには、ちょっと困ったのだが、それはいちおう通訳したはずだ。
しかし、話の途中で、あまりたいした内容ではなかったのだと思うが、僕が通訳する前に次の話を始めた。そこは僕もスルーしようと思ったのだが、ミケシュさんがストップをかけた。「まだ彼の通訳を聞いていない」というのである。これには感服した。
ミケシュさんは、説明を真面目に聞いていて、僕への心配りを忘れなかったのだ。紳士の振舞いというものを思い知った。
話の中で「F-4EJ改に代わる支援戦闘機としてF-2の開発が進んでいる」という説明があったので、僕が「実は僕もF-2の設計チームにいたんだけどね」と言うと、ミケシュさんは日本語で「ああ、ほんとう?」と答えてくれた。日本駐留が長かっただけあって、やっぱり日本通なのである。

やっぱりパイロットだ

浜松基地では、第一術科学校だけではなく、T-4で操縦教育をしている第一航空団にもお邪魔した。
パイロットであるミケシュさんに敬意を表してだろう、操縦教育に使用しているシミュレーターを体験させてもらうことができた。

このとき僕はシミュレータを操縦しなかったけれど、操縦するミケシュさんの横に付いて一緒に計器と画面を見ていた。
まず教官がリモート操作で着陸を実施して見せて、その次にミケシュさんの操縦である。

しかし、滑走路の延長上から、どんどん着陸コースから逸れていく。もう滑走路は近いのに高度を下げないし、方位もずれていくのである。
ミケシュさんは操縦桿とスロットルレバーに手を置いていたのだが、どうも操縦していないのだ。
(きっと僕が「次はあなたの番ですよ」と言うのを失念していたのだろう)

最初は声をかけるのを躊躇していたが、あまりにもずれが大きくなり、これでは着陸復行(やり直し)しかないのでは、と思うに至って、とうとう僕は「Hey, You have control.」(あなたの操縦ですよ?)と呼びかけた。
するとミケシュさんは「Oh!」と小さくつぶやいたかと思うと、なんと、あっという間にT-4を着陸コースに乗せて、見事な着陸を見せてくれた。実にスムーズだった。

T-4はきわめて普通の操縦特性を持っていて、ジェット機の操縦経験があるパイロットなら、飛ばすのに難しいことはない飛行機だ。しかし、着陸進入のファイナルで大きくコースを逸脱しているT-4を、あっという間に着陸パスに乗せるというのは、簡単なことではない。もちろんミケシュさんがT-4を操るのは初めてのはずである。
さすが歴戦のパイロットだと驚いたことが、今でも忘れられない。

博物館航空機の復元について

東京文化財研究所がミケシュさんを招聘したときの主題であった「文化遺産としての航空機の保存と復元」について、ミケシュさんが書いた本がある。
タイトルは「Restoring Museum Aircraft」という、テーマそのものなのであるが、その冒頭でミケシュさんは「航空機の復元(Restoration)と書いたが、ほんとうは保存(Preservation)がベストなのだ」ということを言っている。

本邦ではなにかというと「復元」だと言い、「飛燕」を修復したときも、より徹底的に修復して、塗装を含めて往時の姿を目指すべきだという声もあった。
しかし、文化財として遺すことを考えれば、後世の人間が手を加えることは、最低限に留めなければいけない。いったん手を加えてしまったものは、元に戻ることはないのである。

従って、過去の飛行機を飛ばし続けたり、美しい姿に修復することは、飛行機の好きな人たちに楽しみを与えはするが、それは文化遺産の保存活動とは、どこかで切り分けて考えなければいけない。
スミソニアン博物館では、学術機関である「博物館」として、あくまで文化遺産の保存を心掛けている。だから、彼らの収蔵する航空機は、再び空を飛ぶことはない。
そうした歴史的航空機が飛んでいた事実は、文献や記録を収集し調査することで後世に伝えるべき事柄であり、遺された貴重な現物に、現代の手を加えて実演して見せる必要はないのである。

本邦では、しばしば「飛んでこそ飛行機だ」という感傷的な意見が多くみられ、とりわけ航空機の運用や製造に関わる人たちの間に、そうした声が多いようにも思う。
しかし、ミケシュさんは、自身が歴戦のパイロットでありながら、そうした情緒に流されず、文化遺産としての航空機保存に尽くされたのである。
この一点だけでも、彼はほんとうに非凡な人物だと思う。
もうご高齢だが、お元気でいらっしゃることを願っている。


ロバート・C・ミケシュさんのこと」への1件のフィードバック

  1.  こんばんは、Lです。ミケシュさんの記事、ありがとうございます。彼が書いたJ&P掲載の月光復元の記事を読めば真面目で何が本質で大切かがよくわかる立派な方であることが伝わってきますし、世傑のB-57の記事を読めば、事実に誠実できちんとした価値観を持っており、しかもユーモアを忘れない素晴らしい方だと感じられます。
     ブースカさんのお話で彼の具体的な人となり、記事から感じていた通り、いやそれ以上に優れていて素晴らしい方だと思いました。
     どのエピソードも面白いですが、やはりシミュレーターのお話はいいですね~。イエーガーが音速突破50周年記念でF-15を飛ばした様を思い出しました。ベテランというかホンチョはなるほど、「鳥人」なんですねえ。航空雑誌には独軍パイロットの優れた点はグライダーで鍛えられたとか、ジャンボで小さな飛行場に緊急着陸した英パイロットもまたグライダーで鍛えていたというエピソードが書かれていて、空中感覚を身に着け人機一体となって空気を掴むには動力のないグライダーで修行をしなければならぬらしいとか書いてありました。ミケシュさんもグライダーで修行したのかしら?米軍は知らないのですが、英軍は一部なのでしょうけど戦後もモグラ(スリングスビーT61とか)やソアラー(L-13ブラニクとか)で訓練してるみたいですね。ラウンデルの付いたプラモで知りました。
     後、古い飛行機の保存についてその通りだと思います。「飛んでこそ飛行機」というなら所詮工業製品でしかないのですから、ロシアのように再生産して心行くまで飛ばせばいい。今でも新品・メーカー認定の本物のI-153とかが買えるわけで。そういえば、NHKの川上裕之アナ(ご存命の模様)が”同じ紫電改でも米国では工業製品として展示されてるけど、日本での扱いはご神体だね”とMAの航空誌連載記事に書かれてました。本朝ではロシア産零戦レプリカ(エンジンはアメリカ製だけど。ま、オリジナルも米や英のエンジンの子孫だが)でさえ隙あらばご神体化させるのが恐ろしい。
     また、機会がありましたらお話しください。

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